総評
出題者から皆様へ
今回は、主語と述語の能動的・受動的決定権がそれ以外の文要素や修飾語に如何なる働きによって如何なる影響を及ぼしているか、について考えます。
この問題は、言うまでもなく英文の「構造論・機能論」に直結する問題であり、従ってでんしゃ理論で言えば電車の外形と内部構造に関わることになるのです。
その場合、まず注意しなければならないことは、前回において述べたように英文の構造及び機能は大前提として「nexusの法則」に従っているというものです。従って、この法則は主述関係の間でのみ働く法則ではなく、ある意味で文章全体に決定的な影響を及ぼしているのです。言い換えると、「私は主語である。私は述語である。」という文要素としての地位を文章の末尾にある一語にまで一貫した影響を及ぼしているのです。
では、「私は主語である。私は述語である。」という影響を及ぼすと言っても具体的にはどのような内容・性質の影響をどのような方法・形式で及ぼすのかということになります。これは英文の外形の問題(構造)だけではなく、外形が内包している内部の働き、すなわち「機能の問題」でもあると言うことができます。
ということは、主語の働きと述語の働きを区分して、そしてそれぞれの働きを構造的・機能的視点から捉える必要が生まれてきます。
そこでまず、主語の働き、すなわち「私は主語である。」の影響について考えましょう。
主語は英文を構造的に見るとその頂点に存在する要素ですから、その機能的な働きは文章全体に影響を及ぼします。しかし、文全体に機能的な働きをすると言っても、構造そのものに影響を及ぼす対象物は前回述べたように「述語」しかありません。
これを「主語が述語に及ぼす能動的な決定権」と呼んだわけです。この決定権の内容についてはこの「総評」の中ではまったく触れていませんのでご了承ください(拙著「実践から学ぶ~」では詳述しています)。
では一体、述語以外の文要素や付加的構造物に対して主語はどのような影響を及ぼしているのかと言うと、それは機能的に見て「私は主語である」という主張であって、構造的に見るとそれらの構造物に対しては「受動的な決定権」しか持っていないのです。
要するに、それらの構造物に対して能動的決定権を持っているのは他でもなく「述語」そのものなのです。これは一体どういうことなのか?
次回はその述語の持っている構造的な決定権とその機能的な働き、さらには英文構造全体から見た述語の存在意義について何回かに分けて取り上げてみましょう。
ご期待ください。